最終更新:2007/9/2
 
File No. 11 研究テーマ
萩尾望都:母と子の物語り --04

【1990年代作品より】

母と子の関係が物語に関わっているものをざっと見ていく。

case22 『ローマへの道』
1990年 夫殺しという罪を負った母。そしてその罪ゆえに子供を捨てた母。
マリオはその母の存在を知り、誰にも明かせない秘密を持つことで悩む。
愛を学ばずに暴力を学んだ、という作中のキーワードは「残酷な神〜」にもつながるだろう。母と子の根元的な愛の形を想う作品である。
☆強く厳しい母(夫殺し)

case23 『海のアリア』
1989〜1991年 似ていない双子の兄弟、アベルとコリン。
跡取りとして完璧を好む権威主義的な父はアベルの方だけを認めている。一方、外国人でおっとりした母は二人を差別はしていないが、病がちなコリンにかまうことが多い、という形。母と子としての確執はないが、聖書のカインとアベルの話におけるような兄弟間の軋轢はある。物語のテーマではない。
(☆父と子 兄弟を比較する父)

case24 『カタルシス』
1991年 受験に失敗したゆうじ。彼と一緒に勉強していた正田ひとみは受験前に亡くなった。母の言うなりになって、親しかった彼女の葬儀にも出られなかったゆうじの心は重く塞がれている。息子が思い通りにいかない現実に対して怒りを爆発させる母の姿が恐ろしい。
☆理解のない母

case25 『感謝知らずの男』
1991年 レヴィとその兄(不潔恐怖症で入退院を繰り返す)二人の母は物語の上ではあまり出てこないが、レヴィのモノローグからは母の望む形通りに育たない子供、ということは伺える。さらには、母がバレエに理解があるとも思われない。
☆理解のない母

case26 『イグアナの娘』
1992年 娘をどうしても愛せない母。姉妹は母に比較され、常に妹の方だけ可愛がられ、そのことで深く傷ついていた娘は母の亡骸に対面して初めて自分と母が似ている、という事実を知る。自分に似ていたからこそ愛せなかったのか。
自分を愛さなかった母を許す気持ちになった娘と、最後まで変わることなく逝ってしまった母との対比。母は変わらない、だとしたら自分が変わるしかないのだ。
☆娘を愛せない母(姉妹を比較する母)

case27 『あぶない丘の家』シリーズ
1992年〜1994年
1992年 「あぶないアズ兄ちゃん」
真比古の両親は物語の冒頭で事故死したことが語られている。
ごく普通に愛し愛されていた両親に対する感情。
父母はユーレイになって真比古を欲しがる強力な霊に操られているが、”一緒に連れていきたい”という母の姿は、「モザイクラセン」で異世界に呼び込まれ異様な姿になって迫ってくる母にも重なってくる。
☆亡くなった母(異世界に操られる)
〜その他〜
1992年 「あぶないシンデレラ」
古美術が好きで、美術関係に進みたいのに、頭がいいから医大に行けと父母と祖父母に言われ、それに逆らえないでいた隣の家の金太郎。彼の抑圧は、祖母に幻滅されたことで噴き出し、祖母殺し(後に蘇生)に及ぶ。
(祖父が古美術への道楽で財産を食いつぶしたことも、彼の抑圧をいや増している。)
自分を殺すか、抑圧をかける相手を殺すかの対立がコメディタッチの中にも含まれている。相手が父母ではなく、がんこな祖母であるというのがコメディとしてのクッションかもしれない。
1993年 「あぶない壇ノ浦」
これは萩尾さんには珍しい歴史ファンタジー。真比古が時空を越えて頼朝と義経の関係を実体験していくのだが、戦乱の世に生きた二人の兄弟の歴史的位置と感情を分析してるような形。ラスト近くに身内殺しの多い源氏に関して幼い時期の頼朝が受けたであろうトラウマに触れてあるのが興味深い。

case28 『午後の日射し』
1994年 青年誌に掲載された作品。中年期の母と、思春期真っ盛りの娘。
娘は弟と自分への母の対応の差につっかかる。料理教室で出会った若い男性は娘の予備校の先生として娘とつき合い始める。同性の親と子の間の微妙な感情。
☆理解のない母

case29 『残酷な神が支配する』
1992年
〜2001年
※この作品については、また別途改めて見直してみたいと思う。

 

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研究員:天野章生 / 作成&更新日:2000/3/4、4/16、2007/9/2(『イグアナの娘』『カタルシス』年代訂正)

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