最終更新:2000/4/16
 
File No. 11 研究テーマ
萩尾望都:母と子の物語り --05

終章としての『イグアナの娘』論
〜母は変わらない、だとしたら自分が変わるしかない〜

こうして1970年代、1980年代、1990年代と主立った作品から親と子(主に母と子)を拾ってカテゴライズしてみると、70年代では母は既に亡くなっている、という設定が多く、全般に生きている母は自分の思い通りに育っていかない子に対して理解がなかったり、自分の思い通りの兄弟姉妹と比較することで傷つけたりする。
SFにおいては特殊な生殖性が語られ、そこではなぜか性の転換、というキーが目立ってくる。

母(父)の想いに適っていない自分は哀しい。だが、自分のやりたいことや感じたいことを押さえたくはない・・という気持ちは、誰かの子供だった人間は大なり小なり感じて育つ。作品には作者個人の親との確執(あとがきやエッセイで多く語られている)が反映はしているが、多くの読者の琴線に触れる普遍的な問題でもあるのだ。
読者の心の問題は、くり返し物語化されることで癒され、解放されるのかもしれない。

あなたのマンガではお母さんが死んでることが多いね、というのは初期の段階で誰かに言われた、というのがご自身のエッセイであった。亡くなってる母は美しく想い出の中に生きるが、もっと突っ込んで読むと、少し現実離れして自分の夢の中で生きているような女性が多いような気がする。それは一見理想的な美しい女性に見えて、母性としてはさほど望ましいものではない。
例えば『トーマの心臓』のエーリクの母。美しく誰からも愛されたが、息子に深く依存していた。この強すぎる母子密着は、現在連載中の『残酷な神が支配する』のジェルミとサンドラの関係の原型のような気もする。
萩尾作品で、強くたくましく本当に子供を愛し慈しむ母というのの特徴は、容貌の悪さに附随しているような気がする(例えば、ミロンの母)。
容貌の問題は姉妹間での比較される劣等感にもつながっているが、もってうまれた美しさは『メッシュ』における「苦手な人種」の姉・ポーラのように、人の傷みを分かれない欠点を生んでいたりする。劣等感のある人間の方が、他人の気持ちを理解しやすいのかもしれない。また、現実に対応しきれない弱さや儚さが彼女たちの美しさの元であったりすることもある。

80年代作品から目立つのは「殺し」というキーである。初期の「かわいそうなママ」で既に母殺しは出てるのだが、「メッシュ」における父殺しのテーマや、息子の存在を認められない母の向ける子供への刃など、明確に母殺し・父殺し・子殺しがテーマになる。確執は乗り越えなければならない。その成長の過程で淀んだ確執が「殺し」というドラマになって噴出する。
しかし、それは再生の為の試金石。新しく生まれ直す為に死がある、という死と再生のテーマもまた萩尾作品の特徴の一つなのだ。
例えば、母に憎まれ死に至ったキラ達が、死にかけていた地球を蘇らす母になる『マージナル』や、一度死んだレッド・セイが少年だったヨダカの肉体を借りて生まれ直す『スター・レッド』。死んでいったキラは地球を、自らの封印を解いたエルグは火星を蘇らせた。再生は死なくしてはあり得ない。

90年代。母と娘の確執をイグアナという表象で顕わし、ドラマにまでなった『イグアナの娘』が描かれた。母は娘を愛せなかった、イグアナに見える娘を。
そしてイグアナの娘は自分の生んだ子がイグアナに見えないので愛せないと泣いた。苦しみの連鎖は続くのだろうか・・しかし、通夜の席で、母の亡骸は自分と同じイグアナ。母がなぜ自分を愛せなかったのかを知った娘は、自分を愛せなかった母を許す。許すことで自分も救われ、彼女は自分に似ていない子供を愛せるようになる。
母は変わらなかった、死ぬまで二人の和解はなかった。
けれど事実を認識することで自分が変わることは出来る。苦しみはその時に終わる。
大人として円熟した視点の作品はとうとうここまで来たのだ、と思う。

そして現在。『残酷な神が支配する』が連載中である。
この作品では、親と子の問題は数多い登場人物の中で複雑に絡み、より深く、より社会的な問題に切り込みながら進行している。今後の展開を更に楽しみに待ちたい。

〈この項 了〉

 

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研究員:天野章生 / 作成日:2000/3/4

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