上述した聞き取りや、自分の記憶をたよりに〈24年組〉の語が使われていそうな文献を改めて調べてみたが、どれも〈24年組〉の著者なりの解釈はわりと細かく書かれても、誰によって、いつ頃言われだしたかを明記したものは無く、知ってることが前提になっているか、不明のまま通称とか俗称とか述べられる。つまり、判然としないのが事実なのかもしれない。起源がわからないため〈24年組〉に誰が含まれるのかは、記述者によって、あるいは同じ記述者でもその年代の違いによって、微妙に異なる。以下、その違いを具体的に見ていこう。
まずは、1980年に出版され、今のところ少女マンガ関係の文献で、最も資料価値の高い、米沢嘉博の『戦後少女マンガ史』〔※12〕。彼はこの本は評論集ではないと書いているし〔p.219〕、今では絶版になっていて(*5)、なかなか読めない本ではあるが、今のところ少女マンガについて最も広範に詳しく述べられたもので、影響力のある本。意外にも〈24年組〉という言葉の使用頻度は低く、序と本文最後の項目〔p.11、pp.216〜217〕の部分に、すでに説明すら必要ないほど当たり前の言葉として使われるのみ。これまでの5人以外で、〈24年組〉という言葉が使用されるあたりに登場するマンガ家は、樹村みのり〔※13〕・山本鈴美香〔※14〕・大和和紀〔※15〕・里中満智子〔※16〕・庄司陽子〔※17〕。ここでは彼女らが〈24年組〉だと、はっきり明示されるわけではないのだが。この中で昭和24年生まれは、樹村・山本。他に、本文中で〈24年組〉に関係のありそうな用語は「新ロマン派」と「HOT」と「りぼんコミックグループ」という言葉だろう。「新ロマン派」というのは、美術用語ではなく、少女マンガの世界では、あすなひろし〔※18〕を先駆とし、萩尾・竹宮を指す言葉らしいのだが、ほかに誰を指すのかは不明〔p.119、pp.144〜147〕。あすなひろしは1941年(=昭和16年)生まれなので、普通に考えると〈24年組〉ではない。「HOT」と言うのは萩尾・大島・竹宮のローマ字の頭文字をとったもの。『別冊少女コミック』(小学館)で彼女らが活躍していた時代、こう呼ばれたのだそうだ。そして彼女らの活躍の影には、当時『別冊少女コミック』の副編集長だった山本順一(順也、が正しい。現在『プチ・フラワー』編集長)(*7)が深く関わっていた事に触れている〔p.149〕。また、『りぼんコミック』というのは集英社が出している単行本「りぼんマスコットコミックス」の事ではなく、1969〜71年まで出版されていた集英社の月刊誌。初期の山岸凉子や、一条ゆかり〔※19〕が活躍していた事で知る人ぞ知る雑誌なのだが、この雑誌で活躍していた少女マンガ家たちを「りぼんコミックグループ」と称するらしい。他に、もりたじゅん〔※20〕・ささやななえ〔※21〕・土田よしこ〔※22〕等がいた〔pp.131〜134〕。今「りぼんコミックグループ」の説明であげたマンガ家の中では、一条ゆかりが昭和24年生まれ。
私は1967年生まれだが、これらの用語はこの本を読むまで知らなかった。「大泉サロン」というのは知っていたが。〈24年組〉周辺には先にあげた「新ロマン派」のほか「新感覚派」とか「大泉サロン」とか芸術用語を流用した様な言葉がいくつか登場する。これらについては、他の資料をチェックしながら後ほど紹介する。
11年後、構成を米沢が担当し、上述の『戦後少女マンガ史』の図版的な意味合いを持つ、別冊太陽の『少女マンガの世界II・昭和28年〜64年』〔※23〕にも〈24年組〉の語は本文中殆ど使われないが、米沢によって使われていた部分を引用しよう。「『別冊少女コミック』を主な舞台にしていた作家たちのつくりだす世界は、少女をもうひとつの世界に連れていってくれる圧倒的な空気の感覚、ロマンの香りを漂わせていた。彼女たちを中心に、24年組という言葉が囁かれるようになっていき、少女マンガは次のステップを踏み出していったのである。」〔p.136〕この文から、核となるマンガ家が萩尾・大島・竹宮とされる理由がわかる。また〈24年組〉という言葉の始まりらしきものが記された文でもある。この部分では〈24年組〉のマンガ家として、他には、ささやがあげられ、文章のニュアンスから、一条・山岸・美内すずえ〔※24〕・池田理代子〔※25〕が入るとも取れる。1980年の『戦後少女マンガ史』と比べると木原・山本・里中・大和・庄司・樹村がはぶかれ、ささや・一条・池田・美内が加わっている。ちなみに、池田も美内も24年生まれではない。
同書の中で最も〈24年組〉の語が使用されているのは、本文から独立した、中島梓の文章である〔pp.88〜89〕。少し引用しよう。「24年組、と通称するけれども、中には23年生まれの池田理代子、25年生まれの竹宮恵子たちも含めている。むしろ、同世代である、ということよりも、その作風に何か通じるものがあったといっていいだろう。彼女たちが嵐のように登場するまで、少女マンガは『要するに少女マンガ』でしかなかった。(略)内容がそうだったというよりも、男たちは〈女子供〉の世界に対して共感を持とうとはしなかった(略)不思議なことに、しかしそれ以前のほうが実際には少女マンガが男性の手で描かれている率は高いのである」。この文では〈24年組〉のきっかけは、萩尾望都だったのではないかと明記している点や、その後〈24年組〉のマンガ家たちが「大家」となり、まとめて扱われることはなくなったと書いて、作家をひとまとめに論じることを、やんわりと批判しているような点がとても貴重だろう。中島の文中では池田理代子・青池保子〔※26〕が〈24年組〉としてはっきり扱われている。2人とも昭和24年生まれではないが、彼女の解釈では〈24年組〉は世代に関係なく、共通の作風をもつマンガ家たちである。実際中島は「一般には24年組には入れられないが」ということわりを入れつつ、魔夜峰央や猫十字社〔※27〕・槇村さとる〔※28〕までも、これに加えようとする。〈24年組〉という言葉のもつ問題点を悟ってのことだろう。
またこの本にはちょうど村上知彦が、萩尾・大島・竹宮・ささやの解説を書いているので、その部分も見返してみたが、〈24年組〉どころかその周辺の用語すら一語も出てこない〔pp.80〜86、94〕。この12年前の1979年に刊行された、彼の最も代表的な著書『黄昏通信』〔※29〕でも、やはりあまり使用されないのだが「萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、木原敏江、山岸凉子たち、いわゆる少女マンガにルネッサンスをもたらした〈24年組〉世代、〔略〕倉多江美〔※30〕、坂田靖子〔※31〕、花郁悠紀子〔※32〕、伊東愛子〔※33〕、ルネッサンス第2世代」〔p.50〕となっている。(〔 〕部分筆者。)去年、出版された『日録20世紀1974年(昭和49年)』〔※34〕の〜ベルばらブーム〜の部分を村上が書いた記事では「こうしたブームを支えたのは池田理代子のほか、常時5人のアシスタントをかかえ週8本の連載をこなしていた里中満智子(26)、さらに『新感覚派』と呼ばれた萩尾望都(25)、竹宮恵子(24)、山岸凉子(26)、大島弓子(27)ら昭和24年前後に生まれた〈24年組〉と呼ばれるマンガ家たちだった。」〔p.4〕とされる。この書き方では微妙だが、読者には池田・里中も〈24年組〉に入ると解釈されそうだ。この引用部分には「新感覚派」の説明がなされているが、誰によってそう呼ばれたかは書かれない。やはり不明なのだろうか? 18年前の記述と比べると、木原がはずされ、里中・池田が加えられているとも取れる。またこの文には「大泉サロン」の説明も出てくる。1970〜72年まで萩尾・竹宮が同居していたアパートが、練馬区の大泉にあったので、そう呼ばれていたようだ。2年間だが(*12)、当時の新進少女マンガ家、伊東愛子・ささやななえ・山岸凉子・山田ミネコ〔※35〕などがかわるがわる出入りしていたのだそうだ。この中では、山田が昭和24年生まれ。
橋本治のマンガ評論集『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』〔※36〕には〈24年組〉の語は使われていない。だが、作家論中心のこの本で扱われているマンガ家の多くが、いわゆる〈24年組〉のマンガ家である。だが橋本は、陸奥A子〔※37〕・吾妻ひでお〔※38〕などについても同時に言及し、こういった枠をずらして見せる。
竹内オサムの『戦後マンガ50年史』〔※39〕によると、『朝日新聞』は1975年に少女マンガに関する記事を掲載していた。その記事の確認をしてみたところ、〈24年組〉という語は使用されないが、少女マンガの世界で新しい流れを起こしているマンガ家に、土田よしこ・萩尾望都・池田理代子・里中満智子があげられている〔※40〕。竹内によると〈24年組〉はもともと〈花の24年組〉といい、萩尾望都・樹村みのり・大島弓子・竹宮惠子・山岸凉子らを指す。彼は、里中満智子・池田理代子・美内すずえは〈24年組〉とは違うことを強調している。この本によると〈花の24年組〉を〈1949年組〉と呼びかえた評論家もいたらしいが、こちらは定着しなかったようだ〔pp.139〜140〕。
『COMIC BOX』は、その前身である清彗社時代の『ぱふ』を調べてみたところ、1979年の8月号、再録・まんが家訪問の「竹宮恵子さん」の回で最初に使われているのがどうやら最初だ。この記事は『漫波』〔※41〕という『ぱふ』の前身であるミニコミ誌の再録(*14)で、初出は1976年のものなのだが、「少女まんが家のなかに〈花の24年組〉と呼ばれる人たちがいるそうだ。」〔p.160〕と、すでに伝聞調。ふゅーじょん・ぷろだくと社長で『漫波』の頃からの関係者、才谷さんにお聞きしたところ、「僕のふるーい記憶をたどってみたところでは、米沢くんたちの『漫画新批評大系』あたりから〈24年組〉という言葉は使われ出したと思う」とのことだった(*15)
。この初出1976年は、今回私があたった資料中〈24年組〉の語が使用された最も古いものである。
戦後マンガを概観してある他の書籍では、1975年に出版された、石子順造の『戦後マンガ史ノート』〔※42〕には新人らしい意欲の感じられるマンガ家として、池田・萩尾・土田の名があげられるが〔p.173〕、〈24年組〉の語は出てこず、1986年出版、呉智英の『現代マンガの全体像』〔※43〕では「『24年組』と通称される昭和24年前後に生まれた少女マンガ家たち、萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子らを中心に、池田理代子、樹村みのり、山岸凉子、倉多江美、里中満智子などが、新しい傾向のマンガを描き始めた」〔p.184〕とし、美内すずえは「一度『ガラスの仮面』を手に取ると、近代文芸理論の無力を嘲笑うかのような圧倒的な面白さの前に、読むことを中断することができなくなるほどである」〔p.186〕と別扱いで評価している。ちなみに、倉多江美は生年が書かれた資料が私には見つからなかったが(*16)、先程の村上の引用や、橋本の『花咲く〜』にも「とにかく倉多さんは私よりも若い、もう一つ下の世代に属する方だと、私は思うのです。」〔p.10〕とも書かれることから(ちなみに橋本は1948年=昭和23年生まれ)、〈24年組〉の後継者の1人としてよいだろう。 |